選手名鑑:ヴィンス・カーター
<プロフィール>
本名:ヴィンセント・ラマー・カーター(Vincent Lamar Carter) #15
ポジション:SG,SF
身長 体重:1.98m 100kg
1977年1月26日生まれ。(40歳)
フロリダ州デイトナビーチ出身。
愛称:ハーフマンハーフアメイジング、ビンサニティ
1998年ドラフトでGSWに指名され、同ドラフトでTORから指名されたアントワン・ジェイミソンとトレードされ、TORへ入団。
ちなみに、この年のドラフト選手には今やスター選手として名を馳せた名選手が多くいます。
○マイク・ビビー
○アントワン・ジェイミソン
○ヴィンス・カーター
○ジェイソン・ウィリアムス
○ラリー・ヒューズ
○ダーク・ノビツキー
○ポール・ピアース
○リッキー・デイビス
○ティロン・ルー
○アル・ハリントン
上記の中で未だ現役でプレーしている選手の一人にヴィンス・カーターがいる。
その他にはダーク・ノビツキー、ポール・ピアースがいる。
ダーク・ノビツキーは、DALに入団し、DAL一筋で19年目。
2007年には欧州出身初のシーズンMVPを受賞。
2008年には、ケビン・ガーネットとレイ・アレンが加入し、BIG3を率いて優勝。そして、ファイナルMVPを獲得。
錚々たる顔ぶれの中、1998-1999シーズンでルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いたのが当時、人並み外れたダンクを武器にしていたヴィンス・カーターだった。
現在でも歴代最高のダンカーとして名を馳せている。
あの英雄、コービー・ブライアントでさえ、「歴代ダンカーでスラムダンクコンテストをやるとしたら誰が優勝すると思う?」というインタビューに対して、ヴィンス・カーターと答えている。
カーターを超えるダンカーは、後にも先にも現れないだろう。
カーターが、これまでの自分自身のダンクで最も興奮したと答えているのが、オリンピックでの試合中に披露した身長2.13mを選手を飛び越えて決めた人越えダンクだという。
まさに、ハーフマンハーフアメイジングだ。半端じゃない。
さて、そんなカーターのこれまでの経歴を見てみよう。
<経歴>
○ノースカロライナ大学出身。
○トロント・ラプターズ(1998-1999〜2003-2004)
○ニュージャージー・ネッツ(2004-2005〜2008〜2009)
○オーランド・マジック(2009-2010〜2010-2011)
○ダラス・マーベリックス(2011-2012〜2013-2014)
○メンフィス・グリズリーズ(2014-2015〜2016-2017)
○サクラメント・キングス(2017-2018〜)
大学は、あのマイケル・ジョーダンと同じノースカロライナ大学出身。
当時のカーターのダンクはNBAに革命を起こした。
ヴィンス・カーターは、ジョーダン2世とも呼ばれる程の人気を獲得した。
現NBA選手にもカーターを見てバスケを始めた選手は、たくさんいる。
例えば、CLEのトリスタン・トンプソンは、カーターのファンだった。NBAで初めて顔合わせをした時にトンプソンは、カーターに「あなたは、わたしにとってのジョーダンだ」と話したという。
また、ヴィンス・カーターは今年で40歳。現役のNBA選手では最年長の選手となった。
PHIのガードでトロントの郊外で生まれ育ったニック・スタウスカスは、カーターとの出会いについて語った。
「私は、8歳の頃にTORの練習を観に行った。そして、私は大勢の中から選ばれ、ヴィンス・カーターとモリス・ピーターソンとシューティングゲームをすることになった。私の兄も一緒にいたが、兄は写真をたくさん撮った。ドラフトされた時に兄は、その頃の写真をSNSに投稿したんだ。だから、初めてカーターと対戦した時、『写真を見た、歳を感じさせられたよ』と話してくれた。」とインタビューに答えた。
私もTOR時代のカーターを見た時は、まだバスケをし始めたくらいだった。
カーターが最年長だと知った時は驚きだった。
そりゃあ、ジェイソン・キッドがHCをやっているわけだ。
同期のティロン・ルーなんてCLEでHCを務めてもうすでに優勝を経験しているくらいだ。
カーターよりも若いルーク・ウォルトンまでもHCを務めている。
でも、カーターが現役でまだプレーし続けているということは、カーターの大ファンにとっては嬉しいことだろう。
そんなカーターのこれまでのキャリアを振り返ってみると、カーターの賢さが良く見えてくるものだ。
これだけ長きに渡りNBAで活躍する為には、身体能力だけでは難しい。
リーダーシップがあったり、システムを理解し、コーチング能力を身に付けたり、体の衰えに対してプレイスタイルを変化させたりと様々な工夫をしていかなければならない。
カーターの一番の武器は何と言ってもダンク。
ガードの選手であれだけ迫力のある力強いダンクを披露できる選手は、NBAの歴史を辿ってもいないだろう。且つ、当時のカーターにはスピードもあったのだから、ただ者ではない。
それでもカーターは、ダンクだけの男にはなりたくないとアウトサイドシュートも磨き、年々実力を伸ばしていった。
今では3Pシュートを期待される程にまでになっている。
もし、ダンクだけの選手でゴール下だけを磨いていたら、体の衰えとともにカーターは、NBAからすでに姿を消していたかもしれない。
さあ、ここからは、カーターのデビュー時から見ていこう。
<トロント・ラプターズ時代>
ルーキーシーズンは、TORでプレーし、驚愕のダンクパフォーマンスでNBAを魅了した。
スピードがあり、リングに触れない美しく豪快な力強いダンクを持ち味とする。
カーターのダンクは、ボールがリングに当たることがなく、フィニッシュ時の手首の振りの強さがあるのか、他選手のダンクとは比較できないほど強烈である。
ルーキーシーズンの平均スタッツは、PPG18.3、RPG5.7、APG3.0、BPG1.5をマーク。
1998-1999の新人王を獲得する。
翌年は、3年振りにNBAにダンクコンテストが返って来た年でカーターの出場ももちろん決定していた。
ダンクコンテストが復活したきっかけとなったのもカーターという素晴らしいダンカーが登場したからということなのだから、当然の出場だろう。
カーターの存在がダンクコンテストを復活させたのである。
カーターは、ノーミスで最高のダンクを披露した。
通常とは逆方向に回る360°ダンクを決めたり、アリウープパスを空中で受けてからボールを股に通してのダンク、肘まで突っ込むエルボーダンク、フリースローライン付近から飛んでのダンク。
この2000年のダンクコンテストは、歴史に残る伝説のダンクコンテストになった。
ダンクコンテストといえば、2000年のカーターのダンクコンテストを思い返す人が多いのではないだろうか。
毎年、ダンクコンテストが近づくとこの時の映像が流れる。
カーターがダンクを決めると実況からは、「let's go home」と連呼される。
4本のダンク全てが衝撃だ。もう勝負にならなかった。
2000年ダンクコンテストの映像。
同シーズンではTORをプレイオフ初出場へ導き、その翌年は、キャリア最高の平均得点、PPG27.6を記録。
プレイオフも2回戦まで勝ち進み、アレン・アイバーソン率いるPHIと対戦。
大激戦のシリーズとなり、アイバーソンとカーターの点の取り合いも凄かったですね。
第3戦、カーターはプレイオフ1試合50得点を取る活躍を見せた。
3Pも9本を決め、当時のNBAプレイオフレコードを記録する。
ちなみに、TORのプレイオフ歴代最高得点は、今でもそのカーターの50得点である。
ヴィンス・カーターVSアレン・アイバーソン(カーター50得点)の映像。
しかし第7戦、1点ビハインドの状況から逆転へのラストシュートを放ち、それを外してしまう。
ラストショットを外した原因は、その日に行われた大学の卒業式にカーターが出席して、そこで疲労が溜まってしまったからだとメディアに取り上げられる。
ラストショットを決める決めないがその疲労で左右されるものなのかは分からないが、それだけカーターへの期待は多大なものだった。
ラストショットではディフェンスはあと1本に全力を尽くす。
簡単にシュートが打てないどころか、簡単にボールさえもらえない状況になる。
ラストショットを決めることは、非常に難しいことだろう。
それにカーターは、卒業式に出席するという母親との約束を果たしたまでだ。
また、学業の重要性を伝えたかったとも考えたようだ。
幼い頃からの厳しい母親の教育がこのような真面目なカーターを作ったのだろう。
ただ、そのラストショットを外してシーズンが終わったことは間違いない。
2002年〜2004年は、怪我で戦線離脱を余儀なくされることもあり、チームも低迷していく。
怪我から復帰したカーターは、チームに補強を求めるが、カーターとチームの意向は合わずにカーターは、次第にやる気がなくなり、試合中も適当なプレーばかりすることに。
最近、カーター本人は、手を抜いて試合をしていたことを否定したようだが、その辺りは謎ですね。
止む終えず、TORは、ニュージャージー・ネッツ(現BKN)とのトレードを成立させ、カーターと引き換えにアロンゾ・モーニングを獲得。
しかし、モーニングもモチベーションが上がらずに契約解消となる。
結果的にTORにはなんの見返りのないトレードとなり、このトレードがNBA史上最悪のトレードと呼ばれるようになった。
TORのバスケの歴史は浅く、カーター以前は特にスーパースターといえる程の選手は在籍していなかった。
そこにカーターが現れ、NBAの面白さをトロント中に知らしめた。
7シーズンをTORで過ごしたカーターにとってもトロントは特別な場所になったに違いない。
だが、TORでのカーターの存在は大きく、ファンにも大人気だっただけに、カーターがNJNへ移籍したことにファンが腹を立ててしまうことになる。
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<ニュージャージー・ネッツ時代>
TORを離れたカーターは、新天地NJNでの初年度に平均PPG27.5を記録。
ジェイソン・キッド、リチャード・ジェファーソンそしてヴィンス・カーターのBIG3が誕生。
カーター加入後、キッドからのアシストを受けてカーターがダンクを決めるシーンが多く見られるようになり、エンターテインメント溢れるチームとなった。
しかし、NJNはプレイオフには駒を進めますが、中々2回戦を勝ち進むことができなかった。
インサイドにもっとインパクトのある選手を補強すれば、より強くなっていたのかもしれない。
それこそ、ケニオン・マーティンがいればディフェンスもオフェンスも良くなっていただろう。
カーターは、古巣TORで行われる試合中、ボールを保持すると必ず会場中からブーイングが浴びせられる。
どれだけTORがカーターの移籍に嫉妬しているのかが分かる。
カーターは、ブーイングをされることは実力を認められていることだとし、エネルギーに変えていた。
2005-2006、TORでの試合でカーターが爆発した。
翌シーズンのWAS戦では、46pts、10reb、10astと高得点でのトリプルダブルを記録する。
オールスターには、2000年から2007年まで7年連続で出場している。
その後も根強い人気が続き、ファン投票では常に上位にいた。
カーターは、タトゥー等をしていない為、そのような部分からも高感度の良さを獲得しているという話もあった。
それからキッド、ジェファーソンがチームを離れていくと、30歳になるカーターはDALから獲得したデビン・ハリスとガードコンビを組むことに。
2008-2009には、デビン・ハリスの得点力も上がり、カーターは次第にボールをシェアするようになり、徐々にチームの2番手へとシフトした。
このあたりがカーターが長年NBAでプレーし続けている秘訣なのかと思う。
カーターは、自分の役割を理解していて何をすべきかが分かっていたのだろう。とても賢いプレーヤーだ。
<オーランド・マジック時代>
そして、2009年のオフにヴィンス・カーターが地元オーランドを本拠地とした、オーランド・マジックへ移籍。
このニュースを見た時は、カーターファンとして興奮したことを覚えている。
なぜなら、当時のマジックは強かったからだ。
2008-2009のファイナルは、ロサンゼルス・レイカーズとオーランド・マジックだった。
マジックは、ドワイト・ハワードを中心に4選手が3Pラインの外でインサイドアウトを待ち、3Pをバンバン狙ってくるオフェンスシステムだった。
優勝が狙える強豪チームにカーターがようやく加入したと思い、是非ともカーターに優勝して欲しいと思った。
カーターとハワードのトップでのピック&ロールは、カーターのオフェンスをやりやすくしてくれた。
アウトサイドにはラシャード・ルイスも構えているので、強力なイメージがあった。
カーターは、この頃からややダンクが減ったような気もする。
それでもたまに見せるインサイドへのドライブからのダンクは健在で、アウトサイドからも躊躇なく狙っていた。
カーターの思い切りの良いシュートからは、メンタルの強さも感じられる。
ただ、カーター加入後のORLは、カンファレンスファイナルでBOSに破れてしまう
この時点で10シーズン以上リーグでプレーをしていたカーターは、ベテランの域に達していた。
そんなカーターだが、まだまだリーグのトップとしてやれることを証明してくれる試合があった。
ORL vs NOHの試合でなんと48psを叩き出したのだ。
カーターは、翌シーズン途中でサンズに放出される。
PHXの成績は、当時あまり良くなかったので、強豪から弱小に一転したカーターの2010-2011は、無気力で見ていたことを覚えている。
ただ、PHXではスティーブ・ナッシュが在籍していたので、カーターとナッシュのコンビも少しだけ見ることができた。
2010-2011のNBA優勝チームは、DALだった。NBA初優勝。優勝メンバーにはNJNから移籍したキッドもいた。
ファイナルの相手はMIAで、レブロン・ジェームズ、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュが所属し、スリーキングスと話題になっていたチームだ。
それに勝ったのがDALだった。
シーズンオフに入ると、選手の移籍情報が次々と飛び交う。
そして、優勝チームのDALにヴィンス・カーターが移籍をした。またも興奮してしまった。
カーターは、DALでの新シーズンを迎える。
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<ダラス・マーベリックス時代>
2011-2012、ヴィンス・カーターがDALと3年契約をする。
キッドとの再会、ノビツキーとは同期。
私は、このシーズンからDALを応援することに。
DALへ加入して1年目、スターターとしてベテランらしい活躍をする。
この年はロックアウトの年であり、シーズンが短縮され、DALは36勝30敗という成績でウエスタンカンファレンス7位でプレイオフへ進出。
1回戦の相手は、ウエスタンカンファレンス2位のOKC。
ケビン・デュラント、ラッセル・ウェストブルック、ジェームズ・ハーデンが揃う才能溢れるチーム。
DALは、OKCにスイープされる。
この年のOKCは、レイカーズ、スパーズと破り、ファイナルへと進出している。
DALでの2シーズン目、カーターは、シックスマンとして活躍。
3P成功率は、キャリアで2番目に高い40.6%をマーク。
NBA全体でも20位の成績を残しています。
この年の平均スタッツは、PPG13.4、RPG4.1、APG2.4。
プレイオフには出場出来なかったものの、負け越していたシーズン終盤に勝率5割に戻るまでは、髭を剃らないという約束をし、ノビツキーと共に髭が伸びていた時期もあった。
DALでの3年目は、プレイオフへ出場し、初戦は第1シードである因縁のSAS。DALとはテキサス同士のライバルチーム。大激戦のシリーズになった。
サンアントニオでの最初の2戦は、1-1のタイで大健闘。
続く第3戦は、本拠地DALへ移動。
第4クォーター、接戦で106-106の同点の状況でSASのマヌー・ジノビリがトップでボールを保持し、ティム・ダンカンがスクリーンを仕掛けにくると、ジノビリがダンカンのスクリーンを利用し、一気にリングへドライブした。そして、サミュエル・ダレンベア越しにレイアップを決めます。
これで108-106。残り時間は、1.7秒。
当然DALはタイムアウト。
サイドラインからDAL最後のオフェンス。
ホセ・カルデロンがボールを出す。
角度のないコーナーでカーターがボールを受ける。
シュートフェイクを入れ、ディフェンスについたジノビリを飛ばせてからフェイダウェイ気味の3Pシュートを放つ。
試合終了のブザーが鳴るとそれに合わせてカーターが放ったショットはリングに触れず綺麗にネットを揺らした。
108-109でDALがカーターの劇的なブザービーターで勝利。
シリーズ成績を2勝1敗にした。
(ブザービーターのシーン4:37〜)
第8シードのDALが第1シードのSASを負かすかもしれないと期待が込み上げる。
結果は、3-4であと一歩及ばず。
因みに、この年のSASは優勝している。
カーターは契約満了でDALを去る。
<メンフィス・グリズリーズ時代>
2014-2015、メンフィス・グリズリーズ(MEM)へ入団。
当時、3P成功率が弱いMEMは、カーターにそれを期待する。
カーターは、ベテランらしくコート内外で活躍する。
チームが変われば当然システムも変わるが、カーターは理解力もあり、献身的なプレーでチームの模範となる。
2015-2016、カーターは、トゥイマン-ストークスチームメイト賞を受賞。
これは、チームへの貢献度が高く、リーダーシップの発揮や献身的で模範的存在にあたる選手に贈られる賞だ。
投票は、300人以上の現役NBA選手がそれぞれ1位〜5位までを選ぶ。
1位→10pt、2位→7pt、3位→5pt、4位→3pt、5位→1ptというポイント制。
カーターは、最多の1448ptを獲得。
2位がケビン・ガーネットの916pt、3位がクリス・ボッシュの799ptとなっている。
同賞の獲得からカーターは、数字では現れない部分でも大きく貢献していることが分かる。
カーターは、NBAでダンカーからアウトサイドシュートの強化に踏み切り、自身のプレイスタイルをも変え、コーチとしての役割までも果たせるような知識を身に付け、NBA界に現役として19年間も一線でプレーし続けている。
NBAで息の長い選手は、そう多くない。
20年目も目指しているカーターは、若い選手と練習していると自分もまだまだやりたいという気持ちに駆られると話している。
このプレーする気持ちがあれば、カーターはあと1,2年は現役でプレーすることが出来ると思う。
TOR創設20周年、カーターがTORを去って10年、TORのアリーナで行われる試合では常に、カーターがボールを持つとブーイングが浴びせられた。10年間ずっと。
ただ、この記念シーズンでのTOR戦では、試合中にも関わらず、カーターのTOR時代の活躍を称えた映像とカーターのTOR愛が語られた映像が会場中央のモニターで流された。
会場は、スタンディングオーベーションでカーターを拍手で称えると、カーターも立ち上がって涙を溜めながらファンに応える。感動で何度見ても涙する。
ブーイングをするファンがどれだけカーターを愛しているか、どれだけカーターが惜しまれながらTORを去っていったのか。
カーターがトロントに与えたものは、実に大きいものだ。
そんなカーターは、19年目の2016-2017、前年の3P成功率34.9%から37.8%まで記録を伸ばした。
それも3Pアテンプトが127本多くなっているにも関わらずだ。
殿堂入りも間違いないヴィンス・カーターの今後の活躍にも大いに期待したい。
2017-2018、カーターは、若手選手の育成という役割を与えられつつ、現役としてもプレーする為、SACに移籍する。
カーターより一回り下の世代の選手とプレーをし、これまでのNBAでの経験を活かして若手選手の育成に携わることになったカーターは、2017-2018、58試合に出場してMPG17.7、PPG5.4、RPG2.6、3P成功率34.5%を記録し、若い選手に自身の背中を見せて指導し、SACでの役割を果たした。
SACとの契約を満了したカーターは、FAとなったが、あともう1年コートでプレーしたいと考えているようだ。
そして、ついにカーターは、現役最終年となる2018-2019をATLでスタートする契約を結んだ。
若手選手中心のATLでのカーターの役目は、MEMでもSACでもしてきた若手選手の育成だろう。
カーターの現役20年以上し続けてきた経験は、現役のどの選手よりも大きな財産となっているだろう。
カーターが今まで経験した役割は、チームによっても様々だった。
TOR、NJN時代は、チームのエースとしても役割を担い、チームリーダーとしてプレーした。
ORLへ移籍した際は、ドワイト・ハワードを中心にしたチームでカーターは、2番手、3番手の役割も経験した。
PHX、DALでは、経験豊富なベテランによる試合終盤でのゲームの戦い方を期待されたり、要所での得点、リバウンド、ブロックでチームに貢献した。この時のカーターは、いぶし銀の役割を背負っていた。
そして、MEM、SAC、ATLでは、自身もプレーをしながら若手選手の成長を手助けするような役割を担った。
どんな役割も経験しているカーターは、どんな選手にでもアドバイスができる唯一の現役選手であり、コーチであるだろう。
カーターは、今後、引退後もコーチングとしてNBAに関わっていくのではないだろうか。
永久欠番は是非、背番号『15』のトロントでお願いしたい。
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